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中学高校のときの内科検診がすごく嫌だった話

中学高校時代、内科検診がとても憂鬱だった。

わたしは、過去も現在も変わらず、病院に行くこと自体は好きなわけではないが、とりたてて嫌いでもないと思っている。
理由もなく病院に行こうと思うほど好きなわけじゃないが、必要があればさほどネガティブな感情を抱かずに病院へ行く。
しいていえば病院に行く時間を確保するのがめんどくさいなあと感じるくらいだ。

けれども内科検診の日はとてもブルーな気持ちになった。
わざわざ時間を確保する必要もなく、呼ばれたら同じ建物内の指定された部屋に行けばいいだけなのに。
なんなら授業が堂々と休めてラッキーなぐらいだったのに。


中学高校時代の内科検診

内科検診の順番が近づくと、まずパーテーションで区切られた部屋で下着を外し、制服のシャツを体育着のTシャツに変えるように言われた。
レントゲン検査を受けるときのようなイメージというと伝わるだろうか。

そして順番が来たと呼ばれて、内科医の向かいの椅子に座る。
ここまでは良かった。

けれども次の瞬間、おばちゃん看護師にシャツの裾をひっつかまれてガバッと胸の上までめくりあげられて、がっしり固定された。

そして聴診器をあてられて、大きく呼吸するように言われたあと、背中を向くように言われて、またまた聴診器をあてて終わり。
またパーテーションで区切られた区画で制服に着替えて教室に戻るだけだ。


ガバッとシャツをめくりあげられるのがとっても嫌だった。
内科医が年の近い女の先生や、感じの良いおばさま先生だったらまだ不快感を感じなかっただろうが、あいにくお医者さんは男性だった。

もちろん、嫌がるクラスメートもたくさんいたが、するとおばちゃん看護師が「何嫌がってんのよ我慢しなさい」と言うので、我慢する他なかった。

近所の内科を受診するときは、聴診器を当てられることはあっても、服をめくりあげることなく軽く腕を突っ込まれるだけなのになーとモヤモヤした気持ちを抱えていた。

拒否することを知らなかった私

もちろん、医者が診察するにあたって、デリケートな部分に触れざるを得ないことは理解しているし、受け入れている。
聴診器を当てるために服の中に手を突っ込まれることも、産婦人科医が女性器を触診することも全く嫌悪感がない。

けれども、聴診器を当てるために服をめくりあげられる必要はないし、それを要求されることは不快だ。

今の私なら、たとえ医師に上半身を晒さなくてはならないとなっても、強く拒否する。
自分の体は自分のもので、見せる見せないは私が決めるものと認識しているから。


けれども当時の私は、拒否してはいけないとどこかで思っていた。

めくりあげるのはおばちゃん、つまり女性だからそんな性的な意味はないだとか、まだ大人とは言えない年齢だし気にすることはないとか、めくりあげることに他意はないなどと思いこもうとしていた。
嫌だと思う気持ちを抱く理由がいまいちピンと来なかったのもあるだろう。

けれども今思えば、不快に思っていた時点で声をあげてもよかった。
たとえ10代であろうとこどもであろうと、私の体は私のものであるし、誰に見せる・見せないは自分で決めることだし、それを他人に侵害されたら怒っていいのだ。

いま10代のあなたたちとその周りの大人たちへ

この記事にたどり着いてくださった方の中に、いま10代、あるいは9歳以下の人がいるかいないかはわからないが、これだけは伝えたい。

あなたの体はあなたのもので、誰に見せるか決めていいのはあなただけであって、他の人ではない。
たとえまだ子供でも、大人になっても。

特に胸周りやお尻周辺のいわゆるデリケートな部分は、誰にも見せてはいけないとは言わないが、見て欲しくない・触れられたくないなどと思ったら素直に拒否してほしい。
たとえどんなに親しい人にでも、たとえ同性であったとしても、だ。

そしてデリケートな部分でなくてもあなたの体を、触れられたくない・写真を撮られたくないなどといった気持ちを大事にしてほしいし、きっぱり拒否することは正しいことだと私は思っている。

世の中には、きっと私たちが想像している以上に、悪意を持って私たちの体を利用しようとしている輩がたくさんいるのだから。


一方で、周りの大人たちは、どんなにこどもだと思っていたとしても、まずは一人の人間としてきちんとリスペクトしなくてはならない。
こどもだから触っていいとか、みることに意味がないだとかそんなことは決してない。

さらにその上で、きちんと自分のからだを大切にするように導いてほしい。
不快な気持ちを抱きながらも、これは拒否していいものなのか迷う、多くのひとがいるはずだから。

そして、もし強く拒否されなかったとしても、否定の言葉がなかったとしても、それは合意とは限らないことを肝に銘じなくてはならない。
声をあげる・拒否するという選択肢を知らないことも多々あるのだ。
声をあげることも知らないひとから、"了承のようなもの"を得たといって、その人権を踏みにじるのは、たとえ殴ったりけったりしなくとも暴力にほかならないと私は思う。