虹はね、

なんでも置き場


同担拒否について真剣に考えてみた

Dヲタのみならず、ジャニヲタ、ドルヲタ、アニヲタ、声優ヲタなど、どんな"ヲタク"といわれる界隈でも、それを表す表現は異なれど同担拒否、推し被り敵視の激しい人がいる。

掲示板で匿名で悪口を書き込む、現場で睨みつける程度ならかわいいもの。世の中にはかばんを蹴りつけたりとんでもない暴言を目の前で吐き捨てる人もいるらしい。
(幸いなことにわたしは遭遇したことがない)
これは当然問題だとしてTwitterなどでの学級会でなんども追求されてきたテーマである。


冷静に考えるとおかしいことだ。

どんなエンターテイメントもファンによって支えられている。そのファンが1人では到底成り立たない。

それに魅力的なエンターテイメントにはたくさんのファンがついて然るべきである。彼らはどうして同じものを愛する仲間を傷つけていくのだろう


このテーマについて、いままでになく真剣に考えてみた。


1.ほんとにガチ恋なの?

よく言われるのが、"推し"や"担当"といわれる対象にガチ恋をしていて、"同担"や"推し被り"がライバルだからだ、という考えである。
たしかにガチで恋愛対象として好きならば、"同担"や"推し被り"は恋のライバルのようなものであるから、その恋路を邪魔しようとする、という考えはシンプルである。

でも推し被り敵視するみんながみんなガチ恋してるという意見には違和感を覚える。

ヲタ活では恋愛対象にはなりえないものを好きになり応援することも多々ある。恋人がいる人や既婚者だっている。

でも彼らが同担拒否や推し被り敵視といった行為をしないか。そんなことはない。
だから、わたしはこの問題の根にあるのはそんな単純なことじゃないと踏んでいる。


2.同族嫌悪

同族嫌悪、現場に行くタイプのヲタクはみんなその気持ちの大小はあれどすこしは抱えているのではないかと思う。だって現場に行くとヲタクの姿も目に入っちゃうんだもん。
ヲタクを見ていると、客観的にヲタクとしての自分を考えさせられる。それが同族嫌悪に結び付くのはとても自然な流れだと思う。

ただ問題はそんな同族嫌悪で暴言を吐き捨てたり、にらみつけたりするだろうか、という点だ。
同族嫌悪って、結局は自分への気持ちなのだ。自己嫌悪から周りを攻撃する、というのは論理が破綻している。もちろん論理だけで人は動いているわけではないけれども、これは無理があるストーリーな気がどうしてもするのだ。

だから、同担拒否、推しかぶり敵視に同族嫌悪が関係ないとは言い切れないけど、それだけでない気がするのだ。


3.自分が自分であると認識し続けるため

ここまで、同担拒否、推し被り敵視問題の原因について、仮説を立てては否定してきたわけだが、そろそろ結論を提示したいと思う。

ヲタクであることが自分を自分たらしめているので、ほかの人もそれにあてはまっては自分が自分である根拠を失うから

といわれてもぱっとこない人も多いと思うので、ゆっくり説明していきたい。


ヲタクは"~のファンである"ことを自分を自分たらしめる心のよりどころにしている場合が少なくない。
Dヲタ(キャラヲタ)同士の自己紹介では決まって「〇〇ヲタ」というし、ジャニヲタは「〇〇担です」という。ヅカヲタだって「ごひいきはどなた」と尋ねるだろう。
SNSのアイコンは当然のように応援している担当や推しである。

もちろんそれは問題がない。自分の好みやそれとともに歩んだ思い出は自分を構成するのに重要なパーツだから。

でももしその思いが強すぎたら。ほかに心のよりどころがなかったら。
ふつうはひとつのものごとで自分が構成されているわけではない。
しかし、ヲタクにはいわゆる非リア、つまり現実社会での人間関係がうまく築けていない人も少なくない。
持ってるお金も時間もゆえに自分を構成するパーツがヲタ活しか認識できていなかったら。たとえヲタ活がアイデンティティの形成に大きな位置を占めていたら。

同担、推し被りは自己を揺るがす存在になりうるのではないか。

もし、自分が"~のヲタク"というひとことで説明できたら、同担や推し被りと自分に違いがなくなってしまう。
それでは自分とは何なのだろうか。自分の存在意義とは何だろうか。

だからこそヲタクであることに必死にしがみつき、同担や推し被りを自分を揺るがす敵とみなし、攻撃するのではないだろうか。


さいごに

ここまで同担拒否や推し被り敵視といったことが、なぜ様々な界隈で起こってしまうか、様々な界隈のヲタクたちを観察して思ったことを書き連ねていった。
ただわたしは同族が嫌いで攻撃してしまう、といったことはなく、あくまでもよそからの観察者なので、当事者からしてみれば、ずれているのかもしれない。
また、心理学や哲学を学んだことがないので、不勉強なところが出てしまっているのは愛嬌として見逃してほしい

またここまで考察してきたけど、だからと言って攻撃的な行為は容認されるべきでないし、同担拒否や推し被り敵視を認めるわけではない。平和な現場で生きていきたい。